自分というものの中へ、中へと思いを沈めてゆくと、いつの間にか、何処とも知れない場所に居ることに気付くときがある。自分の奥へ奥へと指を入れていったときに、そこが見知らぬ粘膜であるときのように、自分へ、自分へと入っていくと、いつの間にか自分ではないような心地がするのである。自分のことについて考えていたのに。内向きに、内向きに、考えを重ねてきたのに何故、それがふと気付くと自分ではない空間を見ているのであろうか。「わたし」という空間は、本当は、無いのか。「わたし」は「わたし」という感覚や思考の容れ物だと思い込んでいるようだが、それが違うことであって、思い違いなのか。「わたし」は容れ物などではないということか。
娘は眠っている。すやすやと、安穏に眠っている。わたしは娘のセーターを編みながら、お仏壇のなかに居る、祖母の話を聴いていた。
「まるで火の玉がねえ、幾つも、幾つも、飛んだものよ──」
そうなの、と相槌を打つ。祖母はお仏壇の、白黒写真のなかで、少し遠い目つきになる。写真立ての額縁に、少し埃が付いてしまっているのが目についた。祖母はそれには頓着せず、また云った。
「丸かったわ。鬼火はね、どれも丸かったのよ」
祖母は吐息をして、そしてまた確認するかのように、繰り返す。
「丸かったわ」
わたしはメリヤス編みをしながら、再び、「わたし」の容れ物のことを思い返す。それは、丸いだろうか。わたしという容れ物は、丸いだろうか。
丸い容れ物のなかでは、前後というものが無いだろう。前が後ろになったり、真上が底になったり、するだろう。
「鬼火は丸かったわ。幾つもの川を、すべて鬼火が覆い尽くしたわ。つまりみんな、死んだひとたちだったのね」
こわい爆撃だったのね、とあまり上手に相槌を打てずに呟く。
「しずくってものは、丸いわね」
ふっと声がしてお仏壇に目を戻すと、祖母は目を瞑って沈黙の模様であるし、この部屋には眠っている娘とわたしの他に誰も居ないのだから、喋ったのはわたしか、否、娘が寝言を云ったのだろうか。娘の方から、しかし寝言のようにではなく、障子の方に向けている足の方から、もう一度声がした。
「しずくも、魂も、丸いわね」
娘はまなこを閉じて、穏やかな寝息を立てている。
あんた起きているの、と云いかけて言葉を失った。向こうに縁側のある障子の向こうの月明かりが翳り、丸い光が、飛んでいた。……鬼火なのか。思った瞬間、幾つも幾つもの透明の丸いものが、娘に吸い付くように襲いかかった。わたしは戦慄した。娘は眠っている。
蛙の卵も丸いわね。
娘のほっぺも丸いわね。
鉛の弾も丸いわね。
娘の霊魂も丸いわね。
ビー玉ころころ丸いわね。
娘の目玉も丸いわね。
真っ黒な朝日が丸いわね。
大事なものは丸いわね。
丸いものは、連れてゆくよ。透明なしずくたちが、娘を吸い上げようと一斉にわたしたちに飛びかかってくる。わたしは、恐怖に身が凍ったが次の瞬間わが子の右手を握った。ううん、と娘が云う。
何処かへいって! 去っていけ! 消えて! この子を連れていかないで!
わたしは眠り続けている娘の腕を抱いて、娘の髪に絡み付くしずくを、摑んでは外へ投げつけ、追い払い、また払いのけた。娘はううん、とまた云う。障子紙が破れて、しずくは外へ跳ね飛んでいった。おかあさん、と娘がまだ目を閉じたまま云う。なあに、なんで起こすの、おかあさん。
数計り知れないしずくたちが、娘を吸い取ってしまおうといきり立つ。皆、魂なのだ。これは鬼火なのだ。愛しい我が子を持ちたかったのに、我が子を腕に抱きたかったのに、あの日の爆撃で死んでいった女たちの、魂の、鬼火なのだ。
けれども。
恨まないで欲しい。生き延びた上に、娘を産んだ祖母を恨まないではいられまいか。生き延びた上に娘がまた娘を産み、そしてまた娘を産んだわたしたちに、怒りを向けないではくれまいか。望んで分ちた定めではないと、そのような言葉は口が裂けても誰にも云えないけれど、けれども、生き延びたことを、赦してはくれないか。くれまいか。くれないか、お願いだ。
わたしは半ば目覚めている娘をしっかりと抱きかかえ、ぎゅっとぎゅっと強く腕の中に籠めて護ろうとした。吸い込まれてゆく娘の足先までも私のなかに抱いて、ここに居て頂戴、と念じた。
おかあさん、なんで泣いているの。
娘がもうぱっちりと目を覚まして、わたしを見て不思議そうに訊いた。
ぎゅってし過ぎ、おかあさん、くるしい。
ごめんね、でも、鬼火があんたを攫わないように、しっかりくっついていなくてはいけないの。
オニビ?
知らない言葉を云うときのような無垢な発音で娘は問い返し、ちがうよママ、と云った。
ママ、泣いてるじゃん。この部屋に飛んでいるの、涙じゃん。
丸い莟が緩むかのように、娘が微笑んで、云った。
「涙って、丸いね、ママ」
わたしは娘の瞳をみつめた。破れてしまった障子の向こうから薄々と差している朝靄の光が、浮かんでいた。
──(c) 泉由良 ──
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