抱えきれない重いにんげんが意識をなくしたら次になくすのは尊厳だ。大金持ちでもルンペンでも、ここではみんな赤ん坊になりやさしい言葉を投げかけられる。馬鹿にしているとしかいいようのない、ヌガ―みたいに甘ったるい年配の声。白装束に黄色い割烹着を着て、それなら白になんの意味があるの?と問うても年配はなにも答えない。ただただ、ヌガーは女の食べ物だと年配の彼女はいう。
それほど言葉を話さなければあの女はにこぺたにそっくりだ。にこぺたにこぺた、包丁を持って歩く。髪の毛は魔女のよう、だがすごい早さであの女は歩くのだ。あの女が患者の振りをしているのを知っているのは私だけ。 何もカルテに書かれていることだけが本当のことではない。彼女は本当はすごい速さで歩けるし、トイレにだって一人で行ける。幻肢痛がどうとか言ってるがあの女にはきちんと足が二本そろってるじゃないか。家族が誰も面会に来ないとか言ってるが、毎日夜になると来るじゃないか、大きな音とどこから拾ってきたかわからない落葉の数々を落としていきながら、聴診器をあてなくても聞こえる肺雑音を苦しそうに鳴らしながら、リハビリパンツを買ってきてるじゃないか。 ソーシャルワーカーもプライマリーナースも、どうしてカルテしか見ていないんだろう。そこに書いていないことがたんとあるのに。眼で見ればたんとあるのに。 愛してくれる人だってそばにいるのに。カルテにはどうしてそれらが描かれないのだろう。あの女はとても賢くて、昔たくさんの人が死んだあの事件でもみんなを主導して解決へ導いたじゃないか。カルテにはそんなことは書かれない。ハイエナたちのステーションでの悪口さえも書かれない。カルテは法律で決められた公文書だからだ。 そしてカルテは忘れられた人々のものだ。 (「カルテ」より)
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