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「音楽が、聞こえるでしょう」 明けていく空を見ていると、後ろから声をかけられた。 身体が震える。 振り向いて姿を確認した瞬間、考えていた言葉はどこかへと消えてしまった。青白い顔をした彼女は、にこりともせずに透子に近付く。すぐ隣にしゃがみ込んで、その冷たい手を透子の手の上に重ねた。 「きっと、鳴り止むことはないわ」 その手も、その声も、透子にとっては救いだった。 「もう大丈夫。全部、全部ね」 いつか見た彼女の横顔を思い出して、堪え切れずに勢いよく抱きついた。 華奢な身体に触れて、お腹の底から溢れ出る色々な何かが、何にもならないまま全身を駆け巡っていく。彼女が身を捩らずに自分を受け入れてくれているということが、どうしようもなく嬉しくて仕方がなかった。 だからそれは、まるで、夢のようで。 背中に回されたぎこちない腕の感触に、泣かないつもりを壊された。
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午前三時。 カーテンの先の街は暗い。局から寮に帰ってきたのは一時間ほど前のこと。早朝に仕事があるわけでもなく、普段ならもうベッドに入っている時間だ。 それなのに、透子は眠れないでいた。 キッチンに立って、卵を割って、ボウルに落とし、溶きほぐす。彼女にとってそれは気休めのための儀式だった。 エイビス中央管理局に入局してから八か月。 放送課一番人気の発声者、城崎透子は研修を終え、最終面談を終え、正規職員になった。 とは言っても、それによって大きく生活に変化があったというと、そうでもない。 二か月前に学院を卒業した時も。九か月前にバレーボール部を引退した時も、その一か月後に管理局に入局した時も。確かな節目ではあったけれど、ただそれだけだ。 透子の生活の色ががらりと変わったのは、七か月前のこと。 黒部水曜日と職員寮での同居生活が始まってからだ。 あまり趣味の良い噂を聞かない水曜日との同居に、初めの頃は緊張で胃痛をしょっちゅう起こしていた。実際、彼女は酷く無口で悪趣味な人間らしかった。しかし同居人の透子には気を遣っているのか実害もなく、今では彼女の存在にももう随分と慣れ、細やかで他愛ない関わりが日々の楽しみにもなっている。 溶いた卵に砂糖を加え、泡立てずに優しく混ぜる。混ざったら、ココナッツミルクを入れる。また混ぜる。優しい白色の液体が、ボウルの中でゆらりと揺れた。
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