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別荘 |
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「僕は数取器をポケットに忍ばせて、「僕なんか死ねばいいのにね」の数を毎日カチカチと数えた。昨日は七十二回だった。」(「虚構」) ひりひりしている。しとしと降る晩に読みたい。自分の代わりに誰かが泣いてくれているみたいな夜半がいい。好きだった人たちのことを思い出しぎゅっとなる…、のはわたしの感傷によるもので、ほかのかたにどうかは知りません。 「ねえ、「君が死後の世界はあるらしいぜ」って務めて明るく言ったのはさ、僕が「老いぼれる前に一緒に死んで」って言ったことの答えですか?」(「ボーダー」) 本作は9編の短編集です。エンターテイメントでも表現でもなく、作家自身の記憶のために書かれたもののように思えます。拾遺という題が象徴的、毎日からこぼれおちてゆくいろいろを、拾い補うように書かれた物語たち。 鴻上尚史が「純文学とは物語の筋を必要としない」と語りました。「それゆえ読むのが難しい」と。この後半部分に異論を唱えたいのは、本作が弱ったこころやあたまにも自然に響いてくるからです。簡潔で削がれた(でもエクボがあるんだよなあ)齊藤さんの文章は、むしろ大きな物語に入っていけないときほど沁み入るように思えました。 性と生きにくさが語られます。登場人物たちのかなしみは読者のわたしが抱えているものとは別で、かならずしも共感や経験をともないません。けれど「僕」の語る日々が個別具体的で「ノンフィクションでアンハッピーエンド」だからこそ、個人的な痛みに訴えかける普遍性を獲得しています。 「明日、お前が好きだったニラたっぷりの餃子と酒と煙草、そして大量の本を持っていくからどうか許してください。キュウリとナスを近所のスーパーで買って、いまさらだけど迎え火を焚くから、僕のところにも帰ってきてください。」(「東京、渋谷にて」) そのへんにいて、そのへんでうずくまり、そのへんでわめく誰かのことがアッサリとした筆致で差し出されている。それならば、ばかげた肉体でもって今日を明日をやりすごさねばならない自分を誰かの小説のようにめくってもいい。絶望と希望とは等しい。 | ||
推薦者 | オカワダアキナ |