https://koitsuno.tumblr.com/tameshiyomi ↑ 試し読みURLです。
鹿紙路「歌声」
北山に たなびく雲の 青雲の 星離れ行く 月を離れて
北に臥す山の頂に、かすかな雲がたなびいてかかっている。それが風に吹き付けられて、ゆっくりと嶺を離れていく。そこに現れる一点の星は、つよくきらめいている。けれどその星も、じっとみつめていると、満ちた丸い月から、ゆっくりと離れていくのだ。雲のように、ちいさくふるえながら。やがて雲も星も、山並のなかに消えてゆく。月は星を喪った――…… 月読壮士(つくよみおとこ)といえば、男(おのこ)のことだろうに、あなたはわたしを月のようだと言った。 狂乱に酔うひとびとのなかにあっても、冷酷に、真理のみを見定めていると。 わたしは、そんなに大層な人間ではない。おさないころ、祖父と母を相次いで喪って、見知らぬ難波の宮に連れてこられて、途方に暮れて植栽に隠れて泣いていたわたしを、抱きしめて慰めてくれたあなたに、ずっとこころ焦がされて生きてきた。ちっぽけな取るに足りない人間だ。 気ぜわしいひとの世を、早く離れてしまいたかった。乙巳(いっし)の年に生まれ、宝さまの一行に加わって筑紫の国へ行き、そこから兵を送り出し、そこでむすめを生み、飛鳥に戻ってからも夫とともに壬申の兵乱を転戦し、やっと得た平安もつかの間、夫を喪い、そしてむすこに先立たれた。夫大海人のあとを継ぐべきわが孫は幼く、わたしは皇后として夫を助けた経験を重んじられて、彼の次の帝になった。 星――どんな危ういときでも、溌剌としていた夫を喪ったわたしは、もう抜け殻だ。そう思うしかない日々が続いた。けれどひとびとは、わたしを必要としていて、わたしのこころの底にも、ちいさな炎が立った。 炎をちいさな星として、袋に入れて持ち運ぶことができる。そう思うのだ。わたしの星はひとつではない。十三のときに迎えた夫だけでなく、八つのときに出会ったあなたも、わたしの星だ。 いまでもあざやかに覚えている。石湯行宮(いわゆのかりみや)の宴の場で船出を言挙げするあなたを。近江の宮で父に請われて、春の万花と秋の千葉の優劣を判じたあなたの歌声を。 春は、草の茂る山に分け入ることができず、花々を遠くから見るだけ。けれど秋は、落ちかかる燃えるような黄葉(もみじ)を、手にとって愛撫することができる。だからわたしは秋であると思います――……。
|