えんじ色のカーペットが敷かれた広い館内を巡っているあいだ、松浦とのあいだに会話はひとつもなかった。杏沙が彼に好みの画家や絵について問うこともなかったし、松浦は松浦で、杏沙に断りひとつせず、目玉の絵には眼もくれず別の展示室を覗きに行っては、順路を無視してまた戻ってきたり、かと思えばひとつの絵の前で何分も立ち尽くしていたり、とにかく自由気ままに動きまわっていた。著名な画家の作品がいくつも飾られていることもあり、館内はそれなりに賑わってはいたけれど、歩きまわって作品を見るのに特別不自由するほどでもない。 いつになく落ち着きのない松浦の姿をちらりと見遣ったのち、杏沙も目の前の風景画に視線を移し、それをじっと眺め続けた。どこかから押し寄せて来たであろう水に浸された異国の街の姿。太陽の光を受けてきらめく水面は切ないほどに荘厳で、けれどそのどうしようもない美しさはこの地にとってはたしかに悲劇に他ならない。あらゆるものが酸素の乏しい内側に押し込められ、寄り添うようにじわじわと生命を奪われていく、扼殺にも似た息苦しさと悲しみの真上に、太陽を暗示するということ。相容れないはずのいくつもの情景は、キャンバスの上でだけはすべて、そして同時に事実たりえる。排反な事実が重なり合って当たり前のように両立し、静かにだれかの、自分の内側に入り込んでくる感覚を、杏沙はほんの数秒だけ瞼を閉じて受け止めた。太陽に目を灼かれ白く眩んだその向こう側にたしかに存在する、何万光年も彼方の恒星のように美しい悲しみの粒子たち。 杏沙が瞼を開いたとき、隣には松浦が立っていた。背の高い彼の身体が、淡い照明を受けて杏沙の足元に影を落とす。彼は杏沙に声も微笑みもかけることはなく、ただ、杏沙と同じ絵を見ていた。水に閉じられた世界と、そこに描かれた鮮やかな愛、それから絶望。絶望、と杏沙は音を立てず、舌先だけでその言葉を反芻した。松浦の横顔とその言葉の響きが重なった。この絵と、同じだ。あるはずのないものを抱えているという意味で、そしてそれを当たり前にして生きているという意味で。恐ろしいとは思わなかった。けれど、やはり声をかけることもできなかった。
「太陽をうつすもの」より
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