出店者名 波の寄る辺
タイトル 【新刊】百日紅
著者 桜鬼
価格 400円
ジャンル そのほか
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紹介文
あまぶん新刊……!


都内でも有数の一等地に住まう風花と、家付き運転手の息子である辰樹、ただそれだけの関係のふたりを、一本の口紅が静かに揺らがせようとする。

 始まりは風の怠けた梅雨でした。常であれば異なる風同士が上手く拮抗、干渉、上陸するため殆ど途切れることもなく長い恵みをもたらしていく筈なのでしたが、この年はどうも乾いた曇り空ばかりが過ぎ行きます。何を以てそうと判断しているのかとんと検討もつかない宣言に、現実と人工の乖離を見たような気がしてくるのです。

   中略

 カラフェの中身が空となり赤く満ちたものも残るは一脚のみとなった頃、風花はいつになく頻りにグラスを傾けるようになっていましたが、それはどうやら無意識の内に行われていることのようでした。常ならばいくらアルコールに吸われようと瑞々しく潤っている筈の唇が、乾燥に耐えかねて紅く充血しています。普段からそのむず痒さや痺れるような痛みと親しくしている人でしたら恐らく瞬時に気がつくのでしょうけれど、風花が違和感に鈍感になっているのは何もアルコールの所為ばかりではないのです。ご馳走様と言葉を紡ぐとうに口紅の色など落ちている筈のその唇の淵と山とを、乾燥は重ねるものよりも余程鮮やかに彩っていました。化粧直しのために椅子を引いた風花を見咎めた辰樹は、いつになく彼女を引き留めると、その手に小さなベロアの包みを持たせました。
「これは」
「鏡を見てくるんだろ」
 そうして怪訝な顔をしつつも、礼を言い受け取ったその中身が細かな細工の施された一本の口紅であることを知り、風花は漸く自身の唇の腫れに気がついたのでした。