早坂鏡子、と最後に名前を入力して、鏡子は背もたれに寄りかかった。マグカップを引き寄せ、すする。さっきまで何千回と読み返した文章を、眼がなぞった。 今の自分にはこれ以上には書けない。もっと良い書き方があるはずなのに。編集長に突き返されるかもしれなくて、頭も胃も重かった。気が抜けると、頭と身体が眠気に重くなっていることに気づいてしまう。あー、と間抜けな声を出してだらしなく椅子に全身を預けた。仰ぎ見た天井は鏡子の上だけが明るい。 『鏡子』の『鏡』は『万華鏡』の『鏡』でもあるのよ。 幼いころに母が言っていた。眼が文章の末尾に行き着いて、頭の中に母の声ががんがん響いた。名前を見る度に思い出す。そしていたたまれなくなるまでが一セット。 「あれ、終わったんですか」 終わらないと思われていたのか。締め切り数時間前で、後輩にまで。 声は今年他部署に異動していった後輩のものだ。締め切り前恒例の体たらくをよく知っている。 早いじゃないですか。そう言う彼女ならもっと早く書き上げただろう。もっと良い形に。だから異動していったのだし。 「そりゃあねー。ね、飲みに行こ」 勢い付けて立ち、パソコンを閉じる。 今回の記事も書き上がってみれば、なんてことの無い無難で、つまらない内容だった。それが鏡子には我慢ならない。 「ははあ、さては万華鏡子ちゃんとしては今回も不満なわけですか」 二杯目のビールを注文するついでに、後輩はにやにやする。酒の回った声でいっぱいの、狭苦しい串焼き居酒屋だ。
(「世界万華鏡」より)
|