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「淅瀝」はまおとなあの20年にもわたる関係を描いた作品です。 その間に、なあがまおに見せる顔は様々に変化していきます。 まおが大学生になって一人暮らしを始めたのをきっかけに、天使のようなかわいい《弟》だったなあが「こわい」一面を見せ、ある事件が起きてまおは深く傷つきます。 なあはまおに強い執着を見せますが、まおにはなぜそうなるのかが理解できません。この時期のなあは、本当に怖いです。 その後まおはなあが性的虐待を受けて育ってきた事実を知ることになりますが、だからといって怖くなくなるわけではなく、より深い悩みを抱えて苦しむことになります。 重い? そうかもしれません。 ですが私の率直な感想を言うと、ものすごく面白かったんです。まおの気持ちを考えると本当に申し訳ないのですが、私はページをめくる手が止まりませんでした。 得体の知れないなあが怖くて、ハラハラドキドキしながら読みました。 もしこの部分だけ切り取って、なあの怖さを強調して書けば、サスペンスかスリラーになるかもしれません。 性的虐待を受けた子どもが歪んで成長し無邪気なストーカーになり、主人公が怖い目に遭って、なんなら悲劇的な結末でも用意して「なんて可哀想……」と読者をやるせない気分にさせて、「社会派」と銘打つことも。 それでも良作になるかもしれませんが、そうしなかったのがまるたさんのものすごいところ。 まおがなあから離れることに成功し、この「怖さ」がひと段落ついても、ページはまだ半分ほど残っています。 ここまで読んだら、「これから二人はどうなるの?」と気になって仕方なくなっているはずです。 重いテーマなのに湿っぽい感じがせずどんどん読めてしまうのは、まおが苦しみながらも自己憐憫に逃げず、停滞せず、なあにも自分にも真摯に、また冷静に向き合おうとするからだと思います。 それはたぶん、まるたさんがまあとなおを「可哀想」という目で見ていないからでしょう。 だから私も、二人がどうか幸せになりますようにと祈るような気持ちで読むことができました。 「可哀想」という同情は優しいけれど、なんの解決ももたらしません。二人がもがき苦しみながらひとつの結論を選び取るまで、作者としてとことん付き合ったまるたさんは、本当にすごい作家さんだなあと心の底から思うのです。 | ||
タイトル | 淅瀝の森で君を愛す | |
著者 | まるた曜子 | |
価格 | 500円 | |
ジャンル | 大衆小説 | |
詳細 | 書籍情報 |
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物語はこんな書き出しで幕を開けます。 「メタルでできた翼が冷たい。」 短い中にもその翼が少女たちの生まれもったものではないことと、後から設えられたものの異物感を示唆していて非常に印象的です。 (「金属」じゃなくて「メタル」なところがすごく好きです。無機物なのにぎりぎり無機物ではない感じがあるような、翼に対して最低限の親しみがあるように感じました) 少女たちはなぜ飛ぶのか、という疑問に対しては、一応は答えが与えられています。翼は大人たちによって与えられたもので、「同じように飛んでいる者を見つけたら報告せよ」と命令されているのです。 しかし、それがいったい何者なのかについては、少女たちには知らされていません。 翼といっても風に乗るための形状が与えられているばかりで、うまく風に乗れなければ海に落ちてしまいます。 事実、たくさんの少女が海へ落ちていくのですが、それでもなお大人たちは少女たちを飛ばせるのです。 「ただ前だけを見て。後ろを見たら死んでしまう」 少女たちにとって、翼とは何なのでしょうか。 空を飛べる力。大人に押し付けられた重荷、異物。 少女が大人になったら取り払われるそれには、多面的な寓意が込められているようにも思います。 私には翼を持たされた少女たちのすがたは、自分にも思い当たるふしがあるような気がしました。 私がこの世界の少女だったならば、きっと何の疑問も持たずそこそこ上手に楽しく空を飛び、後ろを見て落ちることもなく、また落ちていく仲間たちに特別な感傷も抱かず、そのまま大人になったでしょう。菜知にも叶にも、請海にもなれないタイプ。 いまはもう陸にいるから後ろを見られるけれど、そのときは前しか見ていなかったし、振り返る必要も感じていなかったな、とかつて少女だった私は考え、物語が自分の人生を触りに来る感覚を嬉しく思いました。 物語は他にもさまざまな要素から成り立っており、多様な読み方に対して開かれた作品だと感じました。 中盤からは驚くような展開も待ち受けていて、即興的な味わいも本作の醍醐味です。 寓意を探らなくても、書き下ろされた「光のこうざい」によってまとまったひとつのSF作品として楽しむことができますし、木村さんの文章それ自体がしみじみと味わい深く鑑賞できるものだと思いました。 | ||
タイトル | この夜が明けたら | |
著者 | 木村凌和 | |
価格 | 200円 | |
ジャンル | ファンタジー | |
詳細 | 書籍情報 |
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私はこの作品を読みながら、物語において「ミステリー」は何のために存在するのだろう、と考えていました。 ここで言うミステリーとは「隠された真実」、つまり「犯人は誰か」「何が起こったのか」に加え、叙述トリック等によって後々開陳される事柄を含みます。 古今東西ミステリー小説は数多あり、謎解きそのものを楽しむものもありますが、ミステリーは作品の最も本質的な部分に光を当てるためのしかけであってほしいと個人的には思っています。 タネ明かしがされて「騙された!」「そうだったのか!」と感じたとき、私はそれまで頭の中で作り上げていた仮説を再検証していきます。何が正しくて何を誤解していたのか。なぜ誤解していたのか。その過程で作品の、または読み手である私自身の本質が鮮明になっていくのが好きなのです。 『嘘つきの再会は夜の檻で』は、まさにそういったミステリーの醍醐味が詰まった作品でした。 本作における最大のミステリーは、もちろん透夏の母が殺された事件の真相ですが、通り魔事件の真相や透夏を巡る人間模様など、小さなミステリーもふんだんに散りばめられており、そのひとつひとつが最大の謎に繋がっていく構成になっています。(こりゃすごい) しかしながら、このお話で一番重要なのはミステリーそのものではなく、その先にある透夏と悠の関係だと思います。 全ての真相が明らかになったとき、私は二人の間にある絆を何と呼ぶべきか、考えてしまいました。 あらすじには「執着の物語」とあります。 作者の土佐岡さんがそうおっしゃるのなら、二人の関係は「執着」なのかもしれません。 でも、本当にそうなのでしょうか? 読者はその言葉を信じるべきでしょうか? 私には土佐岡さんの言葉さえ疑わしく思えてなりません。 何しろこれは、「嘘つき」の物語なのですから。 | ||
タイトル | 嘘つきの再会は夜の檻で | |
著者 | 土佐岡マキ | |
価格 | 1000円 | |
ジャンル | 大衆小説 | |
詳細 | 書籍情報 |
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突然ですが、ファンタジーに登場する魔法を、仮に「文系」と「理系」に分けてみたいと思います。 「文系魔法」は、その発動において主に言葉を紡ぐことが重要なもの。 呪文詠唱が詩的で美しく、それ自体が読みどころでもあります。 体系立てられた魔法理論は存在しないか、あってもさほど言及されないことが多いです。 また呪文はなくても、魔法を当然のように使える人外が使う魔法もこれに当たるかもしれません。 反対に「理系魔法」は理論が重要で、長い呪文の代わりに魔法陣や道具がよく用いられ、使用者はたいてい人間です。 「自販機にお金を入れてボタンを押したらジュースが出てくる」のと同じように、魔法を使う行為とその結果についての因果関係が厳然と決まっていて、「奇跡が起きた!」みたいなご都合展開にはならず、物語にフェアな感じがあります。 さて『月下の星使い』でフェルナンドが使う「星天術」はというと、ものすごくカッコいい理系魔法なんです! 「星天術書」という魔術書に前もって術式を書いておくと、それが魔術儀式と同じ効果になって、術者はそこに「接続」する。 その作法がとてもきびきびとしていて、魔術でありつつも、読んでいてまるでプログラミングを組んでバーッと自動処理をするような気持ちよさがあります。 (そしてその使い手フェルナンドもまた、めちゃくちゃカッコよくて一粒で二度おいしいのです) 星天術について「よく設定が練られています」などと言ってしまうと無粋の極みですが、しっかり体系立てられた理論の陰には、それまでの魔術が辿って来た歴史が感じられます。 私たちの世界で科学が発展してきたように、フェルナンドとルーナの世界では魔術が時代とともに進化してきて、星天術が生まれている。 「星天術」は単なる設定を超え、作品世界に歴史を生み出し、奥深さを与えているように思いました。 「おさしょう」フェルナンドとルーナの関係性はもちろん、世界観の面白さにも注目していただきたい作品です。 | ||
タイトル | 月下の星使い | |
著者 | 夕凪悠弥 | |
価格 | 400円 | |
ジャンル | ファンタジー | |
詳細 | 書籍情報 |
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日本で「ファンタジー」という外来語と、「幻想」という漢語の意味がいつ頃分かれたのか、私には見当もつきません。 もしかしたら最初から分かれていたのかもしれないし、分かれていると思っているのは私だけかもしれません。 ただ作品紹介にあるように、つたゐさんのご本にはなるほど「ファンタジー」よりも「幻想」という言葉がしっくりきます。 しっとりと確かな質量をもちつつも、わずかな毒をはらんだ水のように読者の心に浸潤する、ここではないどこかの物語。 ちょうど「竜の王」では、書物のことを「万人にむけての精神に作用する毒」といっていますが、つたゐさんのご本にはまさにそういった趣があります。 特に「はだしの竜騎士」で顕著ですが、収録されている四編はいずれも竜となにかの「交錯」を見つめる物語です。 つたゐさんご自身があとがきで書かれているように、「せりふや心理描写がすくなく、情景描写をつらねてものがたりを構築してゆく構造」によって、読者は「分かる」と「分からない」のはざまの、絶妙な距離に立たされます。 断じてお話の意味が取りにくいとか、言葉がむずかしいという意味ではありません。物語や語彙は、むしろ簡明です。 もう少し噛み砕いて言えば、「『分からない』ということを自然と分からされる」ような感じ、とでもいいましょうか。 竜という気高い種族の営みを、人間の視線から解釈を加えることができるような気になりはするのですが、同時にそれがいかに愚かしいかを思い知らされるのです。 「どうしても分かることができないものがある」とおのずから知る感覚は、さびしくも喜ばしく、実に得がたい体験でした。 それこそが、私が感じた「毒」の正体なのかもしれません。 しかしながら、この毒はたいへんよい毒です。 「竜の王」に登場する人間の王は毒を摂取して徐々に弱っていきますが、つたゐさんの文章を読んでいる間の悦楽と、読んだ後の新しい感覚は、読む人の日常を豊かにしてくれるでしょう。 よい毒ならば薬では? いえ、それでも毒と呼びたいのは、なんとも官能的な、見てはいけないものを垣間見ているような気がするからです。 (語彙力を放逐した言い方をすれば、「えろい」になるでしょうか。……ミもフタもありませんね!) | ||
タイトル | はだしの竜騎士 | |
著者 | 孤伏澤つたゐ | |
価格 | 400円 | |
ジャンル | JUNE | |
詳細 | 書籍情報 |