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映画と演劇の違いとは何だろう。あるいは、小説と戯曲の違いとは何だろう。 思うに、発信者と受容者というふたつの対極する立場に焦点を当てて考えるとき、発信者が受容者に対して作品を「差し出す」のか、もしくは発信者が受容者を作品に「引きずり込む」のかという違いではないだろうか。前者が映画・小説、そして後者が演劇・戯曲である。演劇は映画や小説と比べ、役者と観客の距離が近く、そしてリアルタイムで繰り広げられる。一時停止も巻き戻しも早送りもできない。観客は演じる役者たちと同じ瞬間を強制的に共有させられる。また、世界が舞台上で完結するため、人物たちの役割がはっきりしている。 本作品「ぎょくおん」は、小説の形をした演劇作品であると思う。読者は主人公、郡司の独白形式の一人称を追う。それはまるで声に出して語られているかのようだ。また、登場人物の配置からも伺える。演劇には物語の始まりと終わりで人物に何らかの変化を持たせるというセオリーがあり、これは主人公である郡司が負っている。そしてその郡司を取り巻くアランと七美は彼に常に郡司に外部からはたらきかける役割を負っており、それが彼に変化を促している。ゆえに、アランと七美には変化という責務はなく、アランに関してはまるで神の降臨を思わせる(ちなみに私はアラン役にはニールス・シュナイダーがぴったりだと思う。気になった方はグーグル先生に聞いてみてほしい)。読者は郡司の深淵に引きずり込まれていく。私はこの作品を2時間ほどで読み切った。それもまた、限られた時間で勝負する演劇を思わせる。 私だったら、この作品をどう演出するだろうかとずっと考えていた。椅子が置かれた舞台に、役者たちを座らせる。座らせたまま、喋らせる。「姉」だけは観客に背を向けさせる。その周囲を、「死」の概念を表象したダンサーが誰とも目を合わせず、静かに動き回る。時折舞台は暗転し、焦土と化した街がフラッシュバックのように映写され、爆音が轟く。 終章、郡司はようやく、そして初めて「死」と目を合わせる。そのクライマックス、彼がどう「死」と対面するのか、その瞬間をぜひ見届けてほしい。 | ||
タイトル | ぎょくおん | |
著者 | オカワダアキナ | |
価格 | 400円 | |
ジャンル | 大衆小説 | |
詳細 | 書籍情報 |
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グロテスク という言葉を聞くと日本人は「気持ち悪い」であるとか、 人によっては「スプラッタ要素」を思い浮かべる人が多いのではないだろうか。 だけど実はこの言葉、西洋美術史という観点から見るともう少し具体的な意味がある。 それは、「人間の体と動植物の形がまじりあった装飾様式」。 本来確固たる形を持った人間の体が、端のほうから蔦や獣の手足に侵食されていく。 自分がわけのわからないものになっていく。溶けだされていく。 そんな本能的な怖れであったり、嫌悪感であったり、そういう感覚だけが強く残り、 現在に至る「気持ち悪い」という意味に転じたのではないか。 と個人的にはぼんやり思っている。 本作「よるべのない物語」は、 そういう意味での「グロテスク」な作品だと紹介させていただきたい。 これはまったく、ディスりではないですよ、キダさん。 本作品は五つの掌編から成る短編集で、キダさんによる挿絵もついている。 それぞれの物語において、「何かとまじりあうこと」が描かれている。 夜という大きくて形のないものと、トカゲや鳥、花という生き物たちと、「自分」がまじりあっていく。 外側から染み込み、内側から溶けだしていく。 この本の中では、夜空や動植物たちは決して人間の背景ではなく、限りなく対等なものとして存在している。 畏敬の念すら感じさせるその在り方は、ひとえにキダさんが持つ、自然への深い愛そのものなのだろうと思う。 ちなみにキダさん、インスタレーション*のご経験もあるという。 インスタレーションにおいて迫ってくるのは空間そのものである。 そこでは「体験」が強制化される。 そこにいるだけで、自分も作品の一部であるかのような気までしてくる。 この「よるべのない物語」も、そんな力を持っている。 私がこの本を手に取ること、ページをめくること、この手の動き、 それも含めたすべてがキダさんの表現であるように思えてくる。 この本には空間を形作る力がある。 本という形をした、立派なインスタレーション作品だ。 そして私は、読者は、この本に取り込まれていく。 外側から染み込み、内側から溶けだしていく。しずかに、まじりあっていく。 *ある特定の室内や屋外などにオブジェや装置を置いて、 作家の意向に沿って空間を構成し変化・異化させ、 場所や空間全体を作品として体験させる芸術。(Wikipediaより) | ||
タイトル | よるべのない物語 | |
著者 | キダサユリ | |
価格 | 300円 | |
ジャンル | 掌編 | |
詳細 | 書籍情報 |
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これは、わたしの物語です。 便宜上、男の子が主人公で男の子同士がそういう関係になるのでボーイズラブというジャンルとして発表した本でしたが、蓋を開けてみるとそんな風に思ってくださる人の方が、どうやら少ないみたいです。 ある人はこれを青春物語と捉えるだろうし、ある人は自分の高校生活を思い出すかもしれない、それから家族の、親のエゴや醜さ、子供の前ではせめて隠しておくべき弱さの発露に苛立つかもしれない、みんなが自分勝手で、「相手」を愛しているのか、「相手を愛している自分」を愛しているだけなんじゃないのか、結局はすべて自己愛なんじゃないか、と疑う人もいるかもしれない、なにこれ結局自慢じゃんと思う人がいても全然おかしくはない。だってここにいるのはわたし自身であるからです。わたしは、わたしの物語を書いたのです。 わたしは、そこにわたしの生きた証が入り込まない小説は書きたくない。 わたしは自分がかつて生きていたことを形に残したい。 わたしにとって、わたしがいない小説は、書いたって意味がない。 10代という時間は、誰にとっても、それがどんな形だろうと、今どう思っていようと、きっと特別なものです。あの時間にしかない感性、自己愛、コンプレックスは二度と戻っては来ません。 わたしの10代は、あの曇天の薄暗くて湿っぽい町。冬は雪で閉ざされてしまう町。圧倒的な海。それでも、あの町に生きる少年少女は輝いていました。わたしもそこに生きていました。 どこに生まれるか、誰のもとに生まれるか、そして誰を生むことになるのか、それは自分には選べないことです。だけど、選べなかった数々を、いつかどこかで自ら選びなおすときが来るのだと思います。その瞬間に、わたしはどうしようもなく心を動かされるのです。それが形となったのがこの小説です。 わたしはこの先、こんなに長い小説を書くことはきっとないでしょう。 それでも、わたしは生涯この物語とともに、この小説を心の支えに在り続けると思います。 もしあなたとこの本に縁があって、手に取ってくださるなら、わたしはあなたに伝えたい。何度でも声を大きく伝えたい。わたしが生まれた町のことを、そこに生きる少年少女たちのことを、閉ざされていても光り輝くあのうつくしさのことを。 | ||
タイトル | ミニチュアガーデン・イン・ブルー | |
著者 | キリチヒロ | |
価格 | 600円 | |
ジャンル | JUNE | |
詳細 | 書籍情報 |